t0994 (独立話)千歳と橘とアレンジ牛乳。 ← ※ねたばれ このあと桔平は牛乳を飲んでたいへんなことになります。 牛乳買ってくる、と千歳が風呂上りの彼の背中に声をかけたとき、桔平はそちらを振り向かずに、テレビを見ながら「俺のも頼む」と言った。それは千歳が、このふたりきりの卒業旅行でいまかいまかと待ち望んだ瞬間でもあった。しかしながら、待望の瞬間がこうして不意に、しかも最高のタイミングで訪れると、いかに千歳と言えども体が震えないわけがない。 ――武者震い、っつーのか…… 財布のなかから千円札を一枚抜き取った千歳は、短い浴衣の前をしっかりと合わせ、臙脂色の羽織を肩にかけるとなるだけ大股になって、その一室を出た。売店は、部屋を出て渡り廊下を抜けた先の小さなロビーにある。三月の夜風はいまだ冷たく、千歳は肩をいからせた猫背になりながら、これからの計画を漠然と思った。 ――牛乳か……蓋を開けて渡したら、さすがに怪しむか? ばってん、他に入れようがない……まあ、途中でちっと飲んだて言えば許して貰えそうではあるが……いや、綺麗に蓋を剥がして、それで元のとおりに戻せば気付かれないかも知れない。ビールのプルタブじゃねーんだし。なんとか……なる? いや、なんとか、する。 千歳は羽織の袂の下に、親指ほどの小さなプラスチック瓶をひとつ、隠していた。中身は、先日賭け将棋でたまたま手に入れた「あれ」である。本当に効くのか、体に害はないのか、と相手に口酸っぱく尋ねたところ、そんなに疑うなら試してやるからよく見てろとまで言われ、ようやく信じた。信じたあとに、家に持ち帰って自分でも飲んだ。 それはまさしく、確かな「効果」だった。飲んで一時間ほど待てば、悪魔の秘薬とも言えそうなほど凄まじく体の熱が煽られ、一晩で全ての作用が魔法のように消える。翌朝には熱が完全に去って、生々しい記憶だけが残る。 ――しかし坊ちゃん、合法じゃないぞ。そこだけは覚えとけ。 合法違法ということであれば、賭け将棋自体が暗黙の違法である。千歳はへらりと笑い流して、その男に「もっとあるか」と尋ねてみた。 ――もっと? こいつに常習性はないはずだが。そう聞いている。 相手が「これは」というほど心配そうな顔で聞くので、その反応で千歳はまた笑った。 『あとひとつだけ欲しい。試してみたいやつがいる』 聞いて相手は、千歳の顔をじろじろと無遠慮に見つめながら、実に好色そうな笑みを浮かべた。 ――若いのに悪いやつだ。さすがに、でけぇなりをしてるだけのことはあるな。 「若いのに悪い」と「でけぇなり」というのが、どういう風に結びつくのかは、千歳としてはさっぱりわからなかったが、とにかくその「くすり」が欲しかった。 ――相手に、それと知らせずに飲ませるのか? うんうん、と大きく頷くと、男はもう一度「……悪すぎるねぇ」と呟いた。 ――「コーヒー」だ。「コーヒー」に混ぜろ。緑茶じゃダメだ。甘みでバレるかも知れない。 「コーヒー牛乳」じゃダメか、と聞き返すと、彼は少し考えて、「問題ないと思う」と言った。そして千歳は、その小さな「くすり」を得た。 さて、千歳の目当ての売店には、旅の土産と思しき箱菓子が平積みされており、その隣に今にも干からびそうなほどの老婆が一人、座っていた。誰が買うともわからぬ珍妙なキーホルダーの束を磨いている彼女のすぐ後ろに、牛乳とコーヒー牛乳が行儀よく並んだガラスケースが構えている。 「コーヒー牛乳ひとつ……いや、ふたつ……うんにゃ、やっぱりひとつで」 「ひとつ、ふたつ、どっち?」 「あー、ひとつ……」 千歳はそこで手を開いて、握り締めていた皺くちゃの紙幣を出した。コンドームを初めて買ったときよりも、ずっと緊張している。 「小銭、ないの?」 「なかばい」 「中?」 「いいや、ないです」 「小銭はない?」 「そうばい」 そんなやりとりをするのももどかしい。ひとたび、彼がどんな風に乱れる、ということに意識を向けると、千歳はそちらに全ての感情を引き摺られ、これ以上猫背にならず、まっすぐに立っていることさえも出来ないほどだった。体は自然に強ばり、なんとなく前のめりになってしまう。 「あら、大丈夫?」 「だ、大丈夫。おばちゃん、早よう……コーヒー牛乳ば……」 「そう……まあ、しっかりしなさいよ」 やけに化粧の厚い老婆から牛乳瓶を受け取った千歳は、前かがみのままスリッパを引き摺るようにして歩き、例の渡り廊下の途中でなんとか背筋を伸ばすことが出来て、ほっと息を吐いた。どこかの宴会場から、やんややんやの喝采も聞こえる。 彼は「牛乳を」と言った。しかし、これから千歳が持っていくのは、「コーヒー牛乳」である。 「だったら飲まない」と言われれば、それで終わりだった。計画は周到というよりも非常に杜撰であり、運任せで、何より実行力がなかった。その実効性のなさが、計画に関する罪の意識を上手い具合にぼかしている、という一面もあった。これでもしも、綿密に計画を組み立てたとすれば、自分は彼を「くすり」で犯すという罪悪感に耐え切れず、今にも泣き出してしまっていたのではないか、という風に千歳自身は思うのである。 ――なりゆき、なりゆき。桔平は、わざわざ「俺に」買ってくるように言うた。チャンスを、俺にくれた。そもそも俺のことが嫌いだったら、この旅行だって、金貯めてまで来てくれなくて良かったわけで…… その思考回路が、非常に利己的で、同時に卑怯なものである、という自覚も千歳にはある。 ――使わない、という選択肢だってある。何もせず、紳士的に、この旅を終える。あいつは春から東京の高校。俺は熊本に戻る。 しかし、いくら真面目にこれからのことを考えようとしても、千歳の袂のなかで、例の「くすり」の存在感はどんどん膨らんでいった。それを意識の外に叩き出す、など毛頭不可能で、その液体の入った小瓶は手の中で爆発でも起こすかのように熱く、プラスチックの薄い壁を通して千歳の理性をじわじわ焼く。 千歳は意を決して、牛乳瓶の頭についていた紫色のビニルフィルムを剥がし、「みどり牛乳」と印字された小さな文字が並んでいる、紙の蓋に指をかけた。爪を使って、それを丁寧にこじ開けて――出来ることならば、無傷の状態で蓋を開けなくてはいけない。しかし千歳の手は緊張で震えた。そしていよいよ剥がれそうだ、という瞬間、千歳の爪は手汗で大胆に滑り、緑色の厚紙の蓋の表面だけがべりりと取れた。 「……ダメか」 失敗である。ここから売店に引き返してもう一瓶買うか、とも思ったが、あまりに時間がかかって彼に怪しまれる、というのも本末転倒であった。 ――なりゆき、なりゆ…… そこで千歳は、髪を振り乱してぱっと背後を振り向いた。誰も居ない。心にやましい部分があるからか、千歳は「もう一度風呂に入りたい」と感じるほど、だらだらとぎこちなく汗をかいていた。 ――俺は悪くない。「一度開けた」とわかる蓋の牛乳を、ぐいぐい飲む、だなんて無防備をやるほうが悪い。俺は悪くない。桔平が、俺の気持ちや企みを見抜けないのが悪い。とにかく桔平は、飲まなきゃいいんだ。たとえ俺が「仕込んだ」としても、桔平がそれを避ければいいんだ。俺は、今までちゃーんと、桔平の前で、「考えて」行動してきたんだ。一回くらい、欲望に流されてもいいじゃないか。今度は、桔平が「考える」番だ。最悪の事態にするかどうかは、桔平の判断に任せる。俺は悪くない。善でも悪でもない。ただ、好き過ぎてちっとおかしい。 千歳は「俺は悪くない」という台詞を、一人ぼっちの渡り廊下で辺りをきょろきょろとしながら五回ほど繰り返した。そこまでして「悪くない」と自分自身に言い聞かせるのは、「どう考えても悪い」という自覚があるせいでもあった。袂から例の小瓶を取り出した千歳は、表面だけ剥がれた牛乳瓶の蓋を爪で瓶の内側へ押し込むようにしてから乱雑に開封すると、やけに甘いコーヒー牛乳を勢いよく半分ほど飲んだ。それから大きくげっぷを吐き、半分残った牛乳へプラスチック小瓶のなかの「くすり」を入れ、一度蓋をし、思い切りよく混ぜた。茶色の液体はさかんに泡を出し、しばらく待つうちに、その水面は穏やかになった。千歳はそれを見届けてからもう一度蓋を外し、まず台詞の練習をした。 「……きっぺぇ、ごめんごめん、俺が半分飲んじまったぁ……」 その言葉を口の中で反芻したあと、千歳は、よし、と腹に気合を入れて、いつもどおりののんべんだらりとした態度を装い、桔平の待つ部屋へと歩き始めた。
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そもそも、奇妙な旅行であった。 男同士で、二人ともまだ十代であるのに、行き先は静かな「温泉旅館」という次第。千歳としても、最初は「ディズニーランド」か「ユニバーサルスタジオジャパン」か、あるいは九州まで足をのばして「スペースワールド」か、という非常に子供っぽいプランを考えていたのである。その考えを伝えたとき、桔平は「卒業旅行なんだから、もっと違う場所にしよう」と言った。「そう言うのなら」と千歳が、「いっそのこと海外にでも行くか?」と提案すると、彼は手の中のパンフレットをめくりながら、「それは行き過ぎだ。俺らは十五だぞ」と笑う。 『十五なんて、言わんとわからん。俺なんか、この前近所の子にエセホストのオジサンてからかわれた……お前だって、なんかちょっとしたチンピラばってん……エセホストて……大阪の子は辛辣ばい』 『えせほすと……まあ、どちらかというとイケメンってことだろ? とりあえず国内にしとこう。な?』 『流し方がすさまじいな。お前はどこがよかとね?』 『べつに、お前と一緒ならどこでもいいよ』 『へっ……おだてても、旅費は折半だけんな……』 千歳は手に持った写真付のカタログで顔を隠して、屋久島特集のページに鼻先を埋めることで、耳まで赤くなった自分を桔平から見えないようにした。 ――『べつに、お前と一緒ならどこでもいい』、か…… そんな台詞を言われて、「どこでもいいなら三鷹の森のジブリ美術館で決まりだな」とはとても言い返せなかった。千歳が屋久島杉に顔をくっつけたまま、やっとの思いで別の雑誌のある欄を指差したとき、彼は「お前はこういうところが好きなのか?」という問いを発した。 彼は、ここは嫌だ、お前の下心が透けて見える、とでも思ったのだろうか。しかし千歳の解釈では、彼には「桔平を大切にしたいこの真心」はなんとか伝わっているが、その下にある「どーにかしたい下心」について、彼はまったく無関心である、となっている。千歳が思うに、彼はとにかく、色事に対する感情が薄いのである。世の中には、思いを寄せられてなんとなくテンションが上がって流されるやつと、いつまでも気付かずに無頓着なやつ、の二種類がいる、と千歳は常々感じているが、千歳にとって橘桔平は間違いなく後者だった。 けれども、今となっては何もかも時間の問題だ、と千歳は考えている。自分はもう、かつてのようにややこしく隠してはおらず、彼に対する好意の表現は、この夏を通して「最高にわかりやすく」「熱く」「的確になった」――これは、千歳自身の実感である。そしてその感覚は、大阪のチームメイトが千歳を評しては、「幸せがダダ漏れで、むかつくわ。どーにかしろ」と口々にからかってくる、という事実を根拠にしていた。少なくとも獅子楽時代、「お前、橘が好きなんだろ?」などと言って千歳をからかう人間は、誰ひとりとしていなかったのである。 なんにせよ、恋愛には好き合う同士の我慢比べのようなところがある。ああしたい、こうしたい、と思ったら、相手にも「そうしたい」と思わせなくてはいけない。これもまた、千歳個人の実感である。 ということを千歳が思い出している間に、彼は痺れを切らしたのだろうか、先ほどの「千歳はこういうところが好きなのか?」という同じ台詞を、今度は時間をかけて、よりはっきりと繰り返した。そして千歳が顔の上のカタログをずらし、ちらりと目線を投げかけて彼の表情を確認してみたとき、桔平は千歳の指差した旅行雑誌の横に、左手で頬杖をついているところだった。 彼の短髪は、この一年で彼の顔に似合うようになった。そう、とても似合うようになった。 『桔平、好いとる』 『そうか、お前はこういうのが好きか。海の幸で、心づくしのオモテナシ、か』 『……んー?』 『どうした? この旅館じゃダメなのか?』 『あー、あ、あのう、海老がウマイらしい。海老が。雑誌に載るんだけん、かなり有名なところだって』 『海老かぁ。海老と言ってもいろいろあるしな……』 ふるさとに程近い、しかし山を挟んで向こう側の、海に面した温泉街。 彼は直後に、「ここにしよう」と呟いた。 『しかしこの宿は高けぇな。新幹線代より高けぇ』 『なら、ランクば下げるか?』 『いや、ここがいい。どうしても海老が食いたい』 千歳が「例のくすり」を手に入れることになったのは、その旅館に予約の電話を入れた、その翌週のことであった。それからトントン拍子にことが進み、桔平はこつこつと金を貯め、千歳は賭け将棋の儲けによって、この宿に宿泊するに至ったのである。 「……きっぺぇ、ごめ――」 牛乳瓶をたずさえた千歳は部屋の襖を開けるが早いが、練習済みのその一声を発するのを中途で止めた。千歳の想い人はそこにいることはいたが、あまりの手際の悪さに待ち疲れてしまったのだろうか、テレビのリモコンを握ったまま、千歳の帰りにも気付くことなくすでに寝入っていたのだった。千歳は反射的に押し黙ると、それ以上音を立てぬよう慎重に部屋の中を移動し、もはや小さな爆弾と化したコーヒー牛乳を、ひとまず備え付けの冷蔵庫の中に移した。 ――どーする……起こして、飲ませるか。いや、寝室に運ぶか? 布団はもう敷いてある。それとも、起こさずにこのまま……桔平を美味しく頂くか……いや、さすがにそれは、ない。ない? ない……いいや。ある、かも、しれ、ない。 千歳は静々と彼との距離を詰めつつ、いつ起きるかわからぬ彼の手前、つけっ放しのテレビを消す仕草を装った。リモコンをそうっと抜くフリをして、その手首に触れる。 ――起こさずに……この……リモコンば……いや、早よう浴衣ば……帯、帯、帯、は、触ったら、いかん……なら、あし、あし、あしくび……うんにゃ、足も触ったらいかん。……やべぇ、何考えてるのかもうよくわからん…… 千歳の心臓は、疾走する子ウサギのそれのようにバクバクと跳ねた。そしてその視線は、眠っている彼の唇に釘付けになった。 今、彼は口の形だけで「ちとせ」と呼んだ。 千歳の脳は瞬間、くらり、としたきつい眩暈を覚えた。このまま、彼の体の上に倒れこみたい。そして、その唇に「俺だよ」と囁き入れたい。さりげなく頭を抱いて、匂いを嗅いで、肩を押さえて、逃げ場を塞いで、手足を縫いとめて、彼が抗ったら抱きとめて、髪を撫で、安心させて――優しく―― ――桔平、何の夢見とるとや……くそっ、夢の中の俺が羨ましい。 千歳は一向に目を覚まさぬ彼の前で、純朴で悪意のない自分を演出したくて、幼い子供のようにぷうっと頬を膨らませた。けれども、寝顔を堪能したい、という心もどこかにあった。何しろ彼の寝顔ときたら、一年前のものとまったく同一なのである。 ――幼い。やっぱり俺もお前も、まだ十五のガキなのかも知れん。 彼にはどこか足りてない必需品がある、と千歳は思う。ときに極端なほど我が強く、鈍く、そして弱い。人の群れのなかにまぎれてしまった獣がそうであるように、自分自身の牙の威力によって追い込まれ、人を傷つける。 それが二度と起こらないようにするにはどうすればいいのか、あるいは、彼の足りない部品がいったい世界のどこに眠っているのかは、千歳もまた感知せぬところであった。彼は生まれる前にそれをどこかへ忘れてきたのか、それとも、経験というものが彼を洗練させ、彼が真の意味で大人になったとき、彼は自然に「それ」を身につけるのか。はたまた、彼は元から「それ」と縁のない生き物だったのか。 ただ、桔平の眉間の皺は、眠りにつくときは解けてしまう。険しい印象を与える目元も、そのせいでずいぶん和らぐ。 千歳はなるだけ息を潜めて、添い寝の位置をとった。それから左手をめいっぱい伸ばして、寝乱れていた桔平の浴衣の裾を、出来るだけ腿が見えないように工夫して整えた。それでもどこか寒そうな気がして、今度は自分の臙脂色の羽織を脱いで、彼の腰のそばにかけてやった。それから千歳は、彼の手の中に握られたテレビのリモコンを、少しずつ、少しずつ、彼を起こしてしまわないよう、慎重に抜き取ろうとした。 しかし彼は、まるで赤子のごとくしっかりとそれを握っていた。 ――なしてこぎゃんモンば……そぎゃんテレビが好きか。 千歳がリモコンにかかった中指を外そうとすれば、薬指が絡む。親指を動かそうとすれば、人差し指に力が入る。千歳はいくらか彼の眠れる握力と戦って四苦八苦していたが、ついに妹が赤ん坊のときそうであったことを思い出し、「なにか代わりのものを握らせればいい」とひらめいた。 そこで千歳は桔平のすぐそばに放り投げてあった彼の携帯電話を手に取ると、それをテレビのリモコンとすりかえてやろうとして、彼の手の中にぐいぐいと押し付けてみた。しかし、そこで不思議が起こった。桔平は冷たい電話機の手触りを嫌うのか、はたまた彼が日頃から「携帯は煩わしくていかん」などと思っているせいか、彼の手はするりと千歳の意図を通り抜け、リモコンを落とすと今度は千歳の手を握った。 「は……」 これには、千歳も一瞬呆けてしまった。 ――離してもらわんと、身動きがとれん…… 千歳は、今度こそ携帯と自分の手をすりかえようとしたり、あるいはリモコンを元の位置に戻そうとしたり、の試行錯誤を試みた。けれども、彼の握力の強さがそれを許さないのである。千歳は添い寝の位置から何度も何度も自分の手を引こうとしたが、強く引けば引くほど、彼は連れ戻すようにして千歳を引っ張り返した。 それとともに千歳の指はだんだんと、彼の口元へと引き寄せられてしまっていた。彼のことを知りすぎるほど熟知している千歳には、それが彼の癖だ、というのもわかっていた。なんでも口にやる、子供っぽい、そしてケモノのような、癖だと。 ――桔平、その癖は直せ。その癖だけは、今は、いかん…… 千歳は、頬に薄ら笑いを浮かべた。楽しい、喜ばしい、というのは正しくないのかも知れない。ただ、千歳は非常に驚き、同時に期待し、そして興奮していた。彼の手に包まれた千歳の指は、ゆっくりとその唇へ導かれて、千歳の中指に、とうとう彼の歯が触れた。噛まれるだろうか、と千歳は息を潜めてじっと待っていたが、そこには柔らかい唇の感触がするばかりで、ついぞガリリとやられるような瞬間はこなかった。 しばらくあって、ようやく格子窓に月が現れた。千歳は、桔平の顔にかかったその光で、「もう半時ばかりこうしている」ということに気づき、やっと緊張を解いた。そして、ふっと体から力が抜けた瞬間、千歳には耐え難い眠気が訪れた。 ――当たり前ばい。牛乳買いに行ったときから、もういろいろいっぱいいっぱいだけん……ばってん、こいつに飲ませるなんざ、良くない思いつきだった。こぎゃんやって、自然に俺を欲しがるごつさせんといかんとに……「くすり」なんか、いらん。断然、俺とお前だけがいい。 ――どうにもならないけど、それでいいんだ。 だから、さきほど仕込んだ冷蔵庫のなかの不穏なコーヒー牛乳を、明日、見つからないうちにさっさと始末してしまわなければ――千歳は朝の計画を立てつつ、彼に握られたままの手とは逆の手を腕枕にした。それから、彼の腰からずり落ちそうな羽織を掛けなおし、ふっと大きなあくびを吐いた。 彼はいつまで、檻の中の獣として生きるつもりなのだろうか。そしてこの自分もまた――今宵の千歳はそんなことを考えながら、彼の唇が自分の指をしゃぶるのを、飽きることもなく眺め続けている。 ← " t0994 "/20091119 |