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五年後千歳と橘。ついに車、難あり器用の橘桔平。




 片目の車を見ると、ほんの少しだけ桔平はドキリとした。赤いテールランプが片方しか点灯しないのは、単純な整備不良に過ぎない。そういう車は、道に百台あれば必ず一台くらいは走っている。

 助手席の千歳は、免許もないのに「運転を代わってくれ」と言ってきた。「代われ」ではない。「代わってくれ」である。しかも彼がそう懇願するのは一度目ではなく、信号で停止するたびに繰り返し、だったのである。

「そんなに俺の車には乗れねぇっていうのかよ」

 桔平が卑屈な言い方をすると、千歳は「そのとおり」と真顔で言った。いつも浮かべている豊かな笑顔がいつの間にか消えてしまって、どうやら本気なんだな、と桔平にもわかった。

「桔平、お前、よくこぎゃん運転で試験通ったなぁ」

「これでも満点突破だぞ」

「うっそぉ……そん教習所は、じきにうっ潰れる。天国に近すぎる」

 千歳の苦しげな言い様に、桔平は「怒ったとや」と一応尋ねたけれど、彼はその質問には答えずに、低い声で「青」と唸った。

 指摘の通り、信号は青になっていた。後ろの車からクラクションを鳴らされる前に、発車しなければいけない。桔平はアクセルを踏んで、今度はバックミラー越しに親友の顔を盗み見た。視線を絡ませながら、「これでどうだ」という風にクラッチを繋ぐ。ギアチェンジのたびに、千歳の目は怯えた。

「……桔平、そぎゃんこっち見んな……頼むけん、運転するときはじっと前ば見とってくれよ」

 怖かぁ、と今度の千歳は笑った。そういう取ってつけたような千歳の苦笑が、桔平はわりと好きだ。いつも飄々としている彼をぎりぎりに追い込んだ実感がして、その征服感がたまらなく愛おしい。焦らせたくてもう一度振り返ると、千歳は「前! 前!」と叫んで桔平の頬を掴む。

 振り向いた前には何もない。車が走るための長くて広い道路しかない。しかし、今夜隣にはあの千歳が居た。彼は運転免許が取れない。原付は取れたけれど、それ以上の免許は視力が足りなくて無理だった。その右目が悲しくもある。決して嬉しく思ってはいけない、自分は悲しいと思わなくてはいけない。桔平はそう感じている。

 けれど、こうして楽しくドライブするくらいは許してほしかった。「桔平の、どエス!」と千歳が怒鳴る。桔平はケラケラと声を立てて笑い、その笑い声を車窓から夜へと逃がしてみた。無論、出て行ってしまったそれは二度と戻って来ないので、笑い終わったあとには静かな時間がやってくる。静寂が訪れると、千歳は薄く笑って「桔平のアホウ」と言った。俺が今何を考えているのか、わかっているんだな、と桔平は思う。

「なら、千歳もアホウばい」

 その男の大切なものを奪ったことを、決して嬉しく思ってはいけない。いけない、いけない。決して、嬉しく思ってはいけない。




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