ロスタイム
遠きにありて。千歳千里番外編、橘桔平完結編、大阪。




1 めちゃくちゃ会いたかった/千歳千里

 そのうち暇になったら行く、行く、と言いつつ一向に来ないので、「お前はイクイク詐欺か」と千歳が文句をつけると、「なんだそりゃ。だせーよ」と男は電話の向こうで少し笑った。

『行くばい。大晦日から二泊三日、どがんね』

 話が具体的になったのは、それが初めてだった。

 

***

 

 今年も年の瀬の混雑は相当なもので、千歳はすっかり癖になってしまった猫背を伸ばし、人ごみのなかから長身の頭を突き出して、駅の改札の上に掲げてある電光掲示板を睨みつけていた。新大阪は今日も大層賑やかである。何しろ本日は年末も年末、十二月三十一日の午後四時であった。帰省客も多いが、買い物客、観光客、そして別の種類の客も混じり、巨大な駅は飽和状態かと思えるほど、人、人、人で埋まっていた。金色に染めた髪が視界に入るたびに、その頭をぎょっとして見つめてしまう。

 しかし、また人違い、である。

(多かねえ……)

 千歳には人の山が、自分より少し低い位置にある垣根に思えてしまう。足元に注意して歩かねば、小さい子供などを足にかけてしまいそうだった。ただでさえリーチが長く、いざというときはその長さを使って足払いなんかを得意にしていた千歳である。鉄下駄というオモリをつけた足は、振り回すだけで充分な凶器になった。というわけで千歳は下手にウロウロすることを避け、改札の見えるパン屋のショーウィンドウ前、という位置から一歩も動かず、ゆらゆらと時折やってくる眠気と戦いながら、傾いたマッチ棒のような姿勢で東京からの友人を待っていた。

 改札は続々と人を吐き出す。待合は流れていく人間、溜まっていく人間、ぼんやりした人間、さまざまな種類の人間で溢れ返り、千歳はとにかく、首を長くして入り口を見やった。向こうだって百七十九センチあるけれど、こちらは文句なしの百九十台である。たとえ気づけなくても、向こうがこちらを発見する可能性のほうが高い。

 そのとき、ひらり、と人ごみの中から誰かが白い手を上げた。その手には灰色の、千歳もよく見知ったぬいぐるみが掴んであった。

 そしてどこからか、興奮した子供の声が上がった。

「トトロ。あれ、トトロや」

 トトロ、トトロや、と繰り返す子供を、母親はしっかりと抱きかかえていた。人ごみに潰されないように守る姿は、何か目に見えぬ敵と戦っているような、必死な険しさすら孕んでいる。そして、トトロである。

「そうねぇ、トトロやねぇ」

「触りたい」

「勝手したらあかんよ。お兄さんに怒られるよ」

 トトロは、揺れながらこちらに進んできた。しばらく戦利品のように高々と掲げられたそれは、近づくにつれて、また人ごみの下に消えた。それから金髪の頭が見え始め、知った顔が笑っているのを発見する。

「お前もやっと十五歳か……今まで十四歳だった、つーのが、信じられんばってん」

 よう、とその男はトトロを持っていないほうの手を挙げて、「久しぶり」と薄く笑った。金髪の短い髪、千歳よりも頭ひとつほど低い背丈に、ブルーのパーカーの上に着込んだ黒いジャケット、そして腕に抱えた灰色のトトロ。その人である。

 トトロはやがて、ぐい、と千歳の胸に押し付けられた。人が多いので、自然と体の距離が短くなる。普段よりも内に入った間合いで喋られて、千歳は少し、戸惑った。

「誕生日プレゼントばい。遠慮なく受け取れ」

「桔平、お前、こんトトロば東京からずっと抱えて持って来たんか……」

「こぎゃんこつはもう、絶対せん」

 二度とするか、と恥ずかしそうに桔平はまた笑う。他にプレゼントするものが思いつかなかったんだろうな、と千歳は彼の事情を察した。確かに自分も今年の八月、彼に何をあげたらいいのかまったく見当がつかずに苦労したのだ。

 一緒に居た頃は常々「ツー」「カー」の気分だったので、考えなくとも相手の欲しいものなどすぐにわかった。しかしこうして離れていると、生活が見えないためか、何がいいのか、何がだめなのか、少しもわからなくなった。それで、散々迷った挙句買ったのはブランドのロゴのついた面白みのない無地の青パーカーで、自分としては「見立ては正しいが無難過ぎてちょっとビミョウ」なプレゼントだったけれども、桔平がそれを今日こうして着て来てくれたからこそ、ようやく千歳にも遅ればせながら「気に入ったのか?」ということがわかったぐらいだった。

 ただ、もうひとつの可能性として、律儀な彼が自分に対する「義理」で着てくれた可能性もあるので、あまり服については突っ込まないでおこう、と千歳は心に決めた。けれども、そもそもそのプレゼントの一番いけなかったところは、誕生日から遅れること一ヶ月、九月の祝日になってからようやく東京に行くチャンスがあって、そこで渡してしまったことだった。桔平はそのとき苦笑いこそしなかったが、ただ一言、「ありがとうな」と言った。そして千歳もまた、今日同じ言葉を言う。

「トトロ、ありがとう。好きだけん、嬉しかぁ」

「新幹線のなかでえっらいじろじろ見られて、マジで盗まれるかと思ったばい。結構、危なかモンたい。年末の移動というのは」

「そりゃあ、パツキンの気合の入った兄ちゃんが可愛かトトロば抱えよったら、誰でんびっくりする。話しかけたいのにお前の顔が怖くて話しかけれんジブリ好きが、車内のどっかにおったはずばい」

 桔平はどんな顔して、このぬいぐるみを買いに行ったのだろうか。千歳はそんな想像をしながら、やはり、桔平とトトロという組み合わせは随分笑える、と思った。

 腕の中のトトロには、葉っぱとドングリの模様の入った緑のリボンがついていた。

 

***

 

 桔平が背中に負った三角形のカバンからは、替えの衣服などではなく保冷剤に包まれた牛肉の塊がいきなり出てきて、隣から覗き込んでいた千歳はそれを発見するや否や、ついつい大爆笑してしまった。

「……桔平が肉ば背負ってやってくる、て。『カモネギ』ならぬ『桔平肉』か」

「また訳んわからんこつば言いよる。ネギも持ってきたばい」

 ネギ、と言ってもそのままの姿ではなく、刻んでタッパーに入れられたわずかなものだった。それからペットボトルに入った出し汁、赤酒の小瓶、蕎麦のパック等が続く。すべての材料をカバンから取り出した桔平は、事も無げに千歳の下宿先の簡易キッチンの具合を調べつつ、ガスじゃねぇってのは最悪だな、と言った。

「どうせ千歳のこつだけん、家ん冷蔵庫には何もなかろうと思ってな。年越蕎麦の材料だけ揃えてきた」

「久木野ん蕎麦かぁ……懐かしかぁ……」

「カセットコンロとか、なかとや?」

「なかよ。なして?」

「こがんグルグルの火力の弱か奴じゃ、何も作れんが」

 桔平は古い電熱線コンロを指さし、「最悪ばい」ともう一度言った。

「別に、湯が沸かせればそれで良かろう」

 千歳にとっては、火元の種類などどうでもいいことだった。それどころか、湯を沸かしてカップラーメンを作る、ということすら昨今の千歳は放棄していたのである。ぶらりと立ち寄った店に入り、そこで胃の満足するまで食う。あるいは、コンビニで弁当を買い漁り、それを食う。三食同じものを食う。不思議と太らなかったし、極端に痩せもしなかった。己の体質は食生活の影響をほとんど受けないのかも知れない、と千歳は思った。千歳は満腹になれればそれで満足していたし、自分で作るなど、面倒過ぎてもっての他だと考えていた。

 しかし、一度美味いものを食べるとその意識が変わる。桔平の居る東京へ遊びに行き、そこで手製のものを散々ご馳走になる。美味いものは全ていい、美味いものは美味いというだけで完全である、という幸福感が自分の脳と胃を満たしたのち、別れ際にも必ず桔平から「弁当にこれを」をタッパーを渡されるのである。しかし、新幹線の中でそれを食い終わり東京から離れるにつれて、耐え難い空腹を感じるようになってしまう。

 そうすると、胃袋を掌握されるというのはこんなに苦しいものだったのか、ということがわかるようになる。空腹は悪ではない。満腹は正義でもない。しかし、その食欲という名の欲望にどれほど忠実に従うか、そしてどの程度の満足を目標とするか、が問題なのである。

 桔平はある意味、その欲望のままに生きているといってよかった。桔平が自分の口にするものに気をつかうのは、それが己の肉体の一部になっていく、ということを常に意識しているからだった。一方の千歳が食生活に無頓着なのは、この体と脳を動かすカロリーさえ摂取できればそれでいい、と考えていたからだった。しかしその考え方の違いについて、どちらがより人間的に正しく魅力があるか、と言えば、やはり桔平の方に軍配があがる。人間はガソリンで動く機械ではない。あらゆることから幸福を追求する生き物である。

 千歳はその、食に関する幸福の追求というのが、昔からほとほと出来なかった。体が規格外に大きいこともあって、人より多くの食餌量を必要とする、という自分なりの事情もあったせいかもしれない。

 しかしそんな千歳も東京を去り、やがて大阪に戻り、コンビニに通う暮らしを再開すると、地獄のような食生活にも一週間ほどでやがて慣れて、いつしか食べ物の苦痛を感じなくなる。コンビニ、飲食店のはしごを繰り返し、たまに東京に行って桔平の味に舌鼓を打ち、大阪に帰って再びの地獄を味わい、いつの間にか日常に戻り「地獄」を忘れる。

 食に対して感動はするが、こだわりと言うものが不思議と発生しないのである。「地獄」から抜け出すためになんとかして自分で作る、という思考回路は、これだから千歳の脳には存在しない。

 そもそも、千歳には「こだわり」という単語が縁遠い。何かに対して「執着し過ぎる」、あるいは「熱中し過ぎる」ということを千歳の飄々とした性質が嫌うのである。

 しかし、その例外は三つだけ存在した。

 「テニス」。そして「橘桔平」と、「自分自身」。

 桔平はスライスした肉を酒につけ、それからペットボトルより取り出した汁の味を確かめた。そして、相変わらず背後から自分の手元を覗き込んだままの、千歳を振り返ってこう言った。

「こん電気コンロじゃ、湯ば沸かして蕎麦ぐらいは作れるばってん、明日はもう無理だな。どっか食いに行こう」

「桔平、どっか行きたかとこあると?」

「ん? いろいろあるばい。通天閣とか大阪城とか、あと、本場のたこ焼きとか」

「俺、たこ焼きの美味かトコロ、知らん……」

「知っとけ、阿呆ゥ」

 今からこっちの友達にでん聞けや、と桔平は背中を向けてしまう。

 千歳はその背中に引き寄せられるように、ふらふらと近づいて桔平の後頭部に触れた。金色に染めた頭は、ちくちくと芝生のような手触りをしていた。頭を振ることで桔平はその手を引っ込ませようとしたが、千歳の手は左右に揺れる頭にぴたりと張り付き、動かない。

「いまから肉ば炒めるけん、邪魔すんなや千歳」

 そう咎められても、千歳は一向に離れる気がしなかった。それどころかますます体を密着させ、シンクと自分との間に桔平を閉じ込めて、その背中をかき抱いた。

「……めちゃくちゃ会いたかった、桔平」

 その一言を言い出すのに、こんなにも時間がかかるから、遠距離恋愛などというのは絶対にするもんじゃないな、と千歳は思うのである。

「蕎麦も早よう食いたい。早よう食べて、早よう寝よう。明日、どこでん連れてってやるけん」

 桔平の青いパーカーのフードは、千歳の顎を乗せるのに、不思議とぴたり、合わさった。

 

***

 

 蕎麦を食ってしまえばもうやることがなくて、紅白とレコ大、どっちする、という選択肢を一応掲げてはみたが、桔平の反応は「どっちでも良かよ」という気の無いものだった。千歳はその様にほっとため息を吐く。千歳もまた、どっちでも良かったのである。

「それとも、今から初詣に行くね?」

「こん近くにあるとや」

「あるにはある。マイナーな神社がひっそり建っとる」

「あんまり、夜から勇んで出かけたい気分ではないな」

「だろ。俺もばい」

 千歳は、今日桔平が持ってきた灰色のぬいぐるみを腕に抱えて、思いのままに手のひらでむぎゅむぎゅと押しつぶしていたが、やがてそれにも飽きた。一度コタツから立ち上がってテレビの上にその「トトロ」をうやうやしく鎮座させると、今度は机の対角辺ではなく、桔平の居る辺へ無理矢理座った。背中から迫り、リモコンを取るフリをして、そのまま体を密着させる。俺は背中を抱くのが好きだな、と千歳はそのとき初めて己の性癖に気が付いた。

 眉をひそめた桔平はしかし、その抱擁そのものに対して、苦情を言うつもりはないらしかった。ただ、こちらを振り返っては「狭い」と睨む。

「狭か。暑かし」

「なら、脱ぎなっせ」

 ぐいぐいと後ろから黒いジャケットを引っ張ると、桔平は意外にもあっさりとそれを脱いだ。そしてブルーのパーカーも脱ぎ、その下の長袖のシャツを出して、「狭かぞ」ともう一度言った。

「キュークツな部屋でごめんな」

「お前がくっつくけん、余計に狭かとばい」

 大阪の千歳の下宿先は、学生の一人住まい、というには少し広く、しかしこうして訪問者を部屋に入れてみればやはり狭く、良くも悪くも「千歳ぎりぎりの部屋」、という印象を桔平に与えた。熊本の、千歳の実家の部屋は十五畳を遥かに超えた、かなり広い部屋のはずだったので、八畳程度のこの部屋は、千歳一人で使うにはなかなか手狭なものであった。

 しかし今に限って言えば、その狭さが心地よい。手を伸ばす範囲に常に桔平が居る、ということが、千歳の心を温かい水のような幸福感で満たした。状況によって価値観というのはこんなに逆転するものか、と千歳は心のうちで微笑んでしまう。

「どーする、桔平。風呂に入ってもう寝る?」

「他にすることもなかしなぁ……」

「俺はこんまま、年越までテレビば観よっても良かとぞ? こんまま、こうして、ずっと……」

 ぴたり、と頬をくっつけると、桔平はまた「狭か」と怒鳴る。声の振動が伝わって、独特のくすぐったさを生んだ。

「千歳、風呂はどっちが先に入るとや?」

「お前から入りなっせ。後から、俺も入るけん待っとって」

「あがん狭か風呂に男二人で入れるもんか。お前から入れや」

 なんや一応チェックしとんのか、と千歳は桔平のスタンスを図りかねた。どういうつもりなんだろう。無意識なのか、それとも、何か考えがあるのか。

 千歳は桔平の行動パターンというのが大体予測できるが、それでも彼の思考には時々無秩序な思いつき、獣のような衝動、気まぐれなどが紛れ込むため、完全に変数を排して予測しきる、というのは不可能だった。時折桔平は、千歳の「こうだ」と思ったレールから逸れて、とんでもない行動に出る。

 無意味で、傲慢で、人の気持ちなど寸分も考慮に入れない、蛮勇や無謀に分類される桔平の衝動。

 千歳はその苦い記憶を思い出し、腕に抱いた桔平の、右のまぶたに指を置いた。

「目ぇ、ちゃんと検査して貰ろたとや?」

「しつこいな。全然、どーにもなっとらんかったって言うたやろが」

 目、という単語は、桔平の心に刺さった後悔のスイッチになった。腕のなかで、その言葉に反応して桔平の体がわずかに固まったのを知り、千歳はなぜか「よしよし」と彼の頭を撫でていた。

 本当は、いますぐ彼の心を解放してやりたいのかも知れない。いいや、まだ手放すつもりなど無いのかも知れない。彼が自分から離れていくことは、これで永久に有り得なくなったのだ。あれから千歳の右目は回復することもなく、ぼんやりと濁った視界で、今日の一日を見つめていた。

「俺から風呂入るけん。気が向いたら、桔平も来てくれ」

 そう言ってはみたのものの、やはり桔平は風呂場に続いてやってくる、ということはなかった。湯上りの千歳の髪を笑い、「今まで気が付かんだったばってん、お前、直毛だったらめちゃくちゃ美形だな」ということを言った。

「髪は顔に関係なかろう」

「いや、髪形は結構重要ばい。お前、それでストレートだったら絶世の美男子だったのに、惜しかなぁ……」

 風呂上りの姿を見せたのは、これが初めてではない。獅子楽の頃、シャワーだって一緒に浴びたことがある。風呂にだって、大浴場でも自分の実家の風呂にでも、幾度も一緒に入ったことがある。それなのに今こうして改めて見つめられる、まだ桔平にとっての発見がある、ということは――、と千歳は湿気と湯気でとろんと温まった脳を叱咤しつつ、少しまどろんだ思考を巡らせた。

 桔平はもしかすると、俺をちゃんと見るようになったのかも知れない。

 そんな新しい考えが、千歳の脳裏にふと浮かんだ。





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" faraway, part two. "/20090501