g010
話が始まる前に。




――お妙さんお妙さん、お妙さん。

 はっと思って目を覚ますと、そこは近藤が愛する人の家の前だった。少しの間気絶していたと見える。何か得体の知れぬ衝撃を食らったようで、肩のあたりがこきりと鳴った。

「どうしました。人の家の前で倒れて」

 おやと思って振り返ると、眼鏡をかけた少年がいる。

「いや、ちょっと」

「ちょっと、じゃあないでしょう。『ちょっと』で人んちの前で寝てもらっても困ります。どうせまた姉上を怒らせたんだ。だから、こうして。こんなところで」

 少年の手には、長ネギと大根の飛び出たビニール袋がぶら下がっている。持とうか、と声をかけると「いらない」と言われる。

「姉上に何か贈り物でも?」

「ああ。もう、渡してしまった」

「それで、他に御用が?」

「いいや。もう少し一緒にいたいと思ったら――思ったら、追い出された。それで、今に至るはず」

 少年の手を借りて、近藤は赤い地面が立ち上がった。茜日。そろそろ警邏の時間が始まってしまう。せっかくの休日がこんな風に過ぎても、近藤は一向に幸福だった。人から見れば随分な不幸が、近藤にとっては何とも言い難いほどの幸せである。殊の外満たされた一日だったと、そう感じたりもする。

「あなた、バカですか」

「バカとは何だバカとは」

「そんなに姉上を思うなら、さっさと奪っていけばいいのに」

 奪う? そんな選択肢は、追いかけて見守るだけの近藤の中にない。

「奪うなんて下賎なマネ、俺はせんよ」

「だから、いつまで経っても――」

――話が始まらないんだ。

 眼鏡の少年はそう言って、はあと大きなため息をついた。

「誰かが奪ってくれないと、姉上はもうダメなんですよ。姉上と僕とはもうじきダメになる。ダメになるんです。今までお互いにお互いを守ろうと生きてきました。それでも――いいや。それだから、もうダメなんです。姉上とこれ以上一緒にいると、胸が詰まって息が苦しい。合わせ鏡を見つめるように、お互いを見続ける永遠に疲れてしまった」

 泣いているのか。近藤がそう声をかけると、眼鏡の少年は近藤に買い物袋を押し付け、玄関と逆の方に駆けて行った。あれはかぶき町の中心の方だと、近藤はぼんやりと思う。後を追わなくてはと思う一方、追ってどうする、とも思う。

(『話が始まらない』)

 話を始めたくないのはお妙さんたちの方だ、と近藤は思っている。しかし、押し付けられた買い物袋持って今ここに立っているとき、それは本当は違うのかも、と思い始めた。

(もしかすると始めたくないのは、俺なんじゃないか。俺が、俺のままで居たいから、ずっと、幸せなままで居たいから、だからこうして『話』を始めないんじゃないか。何かに気付かないふりをして。バカのままで)

 近藤はそのとき、彼の仲間たちのことを思った。ひとりひとりの顔を思い出し、やがて沖田と土方のことを考えた。それを思うと、足がぴたりと動かなくなるのを感じた。棒のように突っ立ったまま、少年のあとも追わず、少女の扉を叩くこともせず、何かぼんやりと、近藤を近藤のままにしてくれる仲間のことを思った。

「――この恋はやっぱり、成就しないほうがいいのかもしれない」

 俺が俺のままでいるには、『奥さん』なんて贅沢すぎる。あるいは、まずトシたちに相談してからでないと――

(そして、この夕飯の材料みたいなものをどうにかしないと――)

 そうして近藤が玄関の方へ向き直ったとき、奥から妙が顔を出した。

「新ちゃんの声が聞こえたみたいだけど……」

 そのとき近藤の意識の流れはがらりと変わった。愛しい人をひとめ見るだけでよかった。迷いは消えた。自分が自分のままでいるよりも、彼女のことの方が大切になった。近藤は出来るだけ、優しい笑顔にしようと心がけた。自分はごつい男だ、というのは知っている。どうしようとも、美形の類でないのは知っている。けれど、妙に対してはいくらでも優しく出来る。この顔でなくてもいい。この声でなくてもいい。この姿でなくても、この性格でなくてもいい。自分という記号でなくてもいい。独占などしなくていい。そばにいられるなら、それでいい。

「お妙さん。夕飯を彼に託されました。ついでに少し、お話をしませんか」

 いくら蹴られても、投げられても、バカにされてもいい。心が通じなくてもいい。今から、話を始めたい。妙の心にぴんと通った、張り詰めた糸を断ち切ってやりたい。

 妙は近藤の目を見て戸惑った。それまで気がつかなかったのが不思議なくらい、美しく澄んでいたからだ。それを見て妙は、はるか昔に幼い弟が、自分を母と思って抱きしめたときとそっくりだと思った。あの、無垢でひたむきなまなざしと全く同じだ。愛を求める目と全く同じだ。そしてこの目は、自分を愛してくれる目だ。そう気付いたとき妙は、自分の中の力が一気に抜けていくのを感じた。それ以上、もう立っていられない。そう思ったとき、自分を支えてくれる腕に気がついた。

「近藤さん」

 どうして、離して下さいと言えないのだろう。なぜ、この腕を求めていたような気がするのだろう。なぜ、いつものようになれないのだろう。元に戻れないのだろう。そしてどうして話は始まってしまうのだろう。やがて妙がいろいろなことを諦めたとき、妙の唇は近藤の前で初めて嗚咽を漏らした。

「なぜ――」

 あんなに心地がよく窒息しそうな永遠はもうどこにもない。母の胎内のような場所、殻の中のように安全な場所はもう、どこにもない。いくらこの家を守っても、自分の心はこんなにも弱い。妙は力の限り近藤の胸板を叩いた。やがて、その腕はゆっくりと近藤の背中に回った。それから「なぜ」という呟きがとうとう泣き声に変わり、妙はようやく、何かをひとつ、捨てることを覚えた。




  
" g010 " / 20071004