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山本武、二十歳。



 山本は、大抵のことを笑って済ませる。どんなに嫌なことがあっても、笑っていればいいと思っている。笑えないことは、そんなに多くなかった。始終にこにこして、それだけで良いのだ。

 それでも笑えない日は必ずやって来る。笑おうとすると、喉に舌が絡んで息が苦しくなるような日。唇が妙な方向に歪んで、笑顔を成さない日。目付きばかりがぎょろぎょろとして、そればかりが目立つ日。そういうときの山本は、旧友に会いに行く。沢田や獄寺や、ボンゴレの仲間に会いに行く。ほとんどの場合、それで何とかなる。旧友の前では、山本は自然と笑顔になれる。条件反射のように、顔から笑いが浮き上がる。

 特に、沢田に会いに行くとそれだけでいい。別に何を話す、何をするという訳ではないが、「ただ会う」、それで良いのだ。山本から見るに、沢田はいつもまともだった。十年前からずっと、「まとも」であり続けた。「まとも」であるということはそれだけで十分価値があると、山本は思う。

 しかし、旧友の前でも笑えない日がある。知っている人間の前だからこそ、少しも笑顔が機能しない日がある。笑い方を全部さっぱり忘れてしまって、自分の声色まで忘れてしまって、どうしようもない日がある。そんな日は煙草のフィルターをがちがちに噛みながら、女に会いに行く。誰とは決まっていない。女たちはみんな山本に優しいので、山本も女には優しく接する。そう、とても優しく接する。

 これでも駄目なときがある。友人も、煙草も、女も役に立たなくなってしまうとき。そんなとき山本は、仕事に精を出す。ひたすら仕事をして、笑顔が戻って来るのを待つ。人を切り裂く最中に、自分の頬が自然と吊り上がるのを待ち、その感覚を忘れないようにして家に帰る。そうすると、次の日からまた笑えるようになる。

 それでも駄目なら、山本はもう誰にも会わない。血の匂いにも反応しなくなったら人目を避けて、誰にも会わずにただ街中を彷徨う。歩いて歩いて、歩き疲れて、そういう自分を笑えるようになるまでひたすら歩く。真夜中の繁華街を通り抜けて、人のいない場所へ。まだ田舎の部分が多いシチリアを、月光を浴びながら歩く。途中で疲れ果て、橋の下で眠る夜もあった。歩いている間に気が晴れて、引き返すこともあった。しかし、多くの場合は擦り切れるまで歩き続ける。歩いている間に夜が明けることも、多々あった。

 その夜の山本もやはり、歩いていた。靴はどこかにやってしまって、既に裸足だった。スーツの上着も捨ててしまった。黒色のシャツと、ベージュのスラックスだけ。サスペンダーに小銃を挟み、ふらふらと歩いている。こういうとき、山本は酒に酔わない。普段から酒に大層強い訳ではないのに、こんなときに限って酔うことが出来ない。

 ふと気が付くと山本は、向日葵畑を歩いていた。辺り一面に、身の丈ほどの立派な向日葵が咲いている。夜露か、昨日の雨のせいだろう。葉にかかる水滴が山本のシャツを濡らしていく。そうして月光を浴びた向日葵はどれもみな、うな垂れていた。

 裸足の足に、湿った黒土の感触が心地良い。山本は向日葵畑の中を、彷徨った。ときどき九月の涼しい風が吹いて、向日葵がそれぞればらばらに揺れる。山本の腕や背中を叩く。黄色で頭でっかちの花がぐらぐらと騒ぎ、花びらを微かに散らす。

 山本は向日葵を掻き分け掻き分け進みながら、畑の中に幻を見始めていた。向日葵の陰に沢田が居た。獄寺が居た。他にも、見知った顔がどんどん現れた。

(ツナ、獄寺、リボーン、笹川先輩、ビアンキ姐さん、ランボ、骸、ディーノさん、ロマーリオさん……)

 向日葵の中に、人の顔がノイズのように混じっている。誰もが笑顔なのに、誰一人として山本を向いていない。皆、うな垂れながら笑っていた。山本は生唾を飲んだ。こんな幻が何になると言う。幻影を生んだ自分の脳味噌の陳腐さを、呪った。

 知人の顔をした向日葵を掻き分けた後には、優しい女たちの顔が見え始めて、それからすぐに消えた。その直後、山本がよく知った顔が現れはじめた。

(よお、また会ったのな。)

 山本は、周囲を死者に囲まれていた。そよそよと揺れる向日葵の向こうに、山本がこれまで斬った人間たちが、静かに立っていた。誰も笑っておらず、死の匂いのする冷たい表情をしている。荘厳で、誇りのある顔だった。死の恐怖に凍っていながら、それでも気品のある顔つきだ。山本がこれまで何度も見て、その度に心のどこかで憧れたあの美しさをしている。つまり、死を覚悟した人間に特有の、最後の美。笑顔とは正反対でありながら、笑顔どころかそれ以上の魅力を持つ顔。そして、山本には決して再現出来ない表情。

 山本は向日葵をひとつ、手に取った。そして、自分の顔をその花の中に埋めた。花粉と、太陽と、雨の匂いがする花だった。山本は、しばらくそうして立っていた。耳からは、向日葵が風で揺れる音しかしなかった。月が静かに南中し、山本を照らしている。山本の影が、小さくなる。そのとき、ざわりと大きく風が吹いて、山本の持った向日葵をどこかへ攫って行ってしまった。

 そこで山本が顔を上げると、向日葵の陰に雲雀が居た。いつのまにか死者の幻は消えた。雲雀が一人、背中を向けて立っている。

(ヒバリ。)

 呼びかけようとしても、喉が絞まって声が出ない。黄色の向日葵畑の中に、いつもの黒スーツを着た雲雀がぽつんと佇んでいる。月光を浴びているせいか印象が儚い。そこで、「ああ、これも幻のひとつだ」と山本は気付いた。

 さやさやと、向日葵が揺れる。月の光を雲雀の黒髪が反射する。背筋をぴんと伸ばした雲雀は、向こうを向いたまま振り返らない。山本はその背中をじっと眺めながら、笑顔をいくつか練習し始めた。しかし無駄だった。あらゆる表情の作り方を、忘れてしまっていた。媚びる顔、悲しい顔、怒った顔。どんな表情の欠片すら、山本の中には残されていなかった。

「君。」

 雲雀の幻がゆっくり山本を振り返る。山本は咄嗟に両手で顔を覆った。どんな表情かもわからない自分の顔を、よりによって雲雀に見られたくなかった。ざわりざわりと向日葵が揺れて、雲雀がこちらに近づいてくるのがわかる。とうとう山本の正面に立った雲雀は、両手を山本の手に重ねた。ひんやりとした、温度の低い手だった。

「いいかい、僕の言う通りにするんだ。この手を外したら、君は僕の目だけ見る。僕の目の中に、君が居る。その顔が、どんな顔か君は知っているかい。知らないだろうね。よくご覧。これが本当の君の顔だよ。」

 その瞬間また大きく風が吹いて、向日葵畑がざわめいた。あまりの勢いに山本は力を入れて目を閉じ、ますます顔を隠した。手に重ねられた、冷たい両手の感触が消える。ヒバリ、と思って自分の顔から手を放すと、開けた視界の中にはもう誰も居なかった。

 向日葵畑の中に、山本は一人、立っていた。彼は最初から一人ぼっちだった。穏やかな風が時折通り過ぎて、山本の頬を撫ぜた。大輪の花が、そよりそよりと重い頭を揺らしていた。山本はしばらくぼうっとした後、そのままごろんと横になった。体から急に力が抜けて、だるい。土で汚れるのも気にせず、仰向けになって月を見た。脱力しきった身体に地面の冷たさが心地良かった。東の空を、ひとすじの流星痕が駆け抜けていく。そして、ふいに消える。

 山本は考えた。明日、ヒバリに会いに行こう。仕事は入っていなかったが、何か口実を考え出せばいい。何か、ヒバリの喜ぶものを持っていこう。アイスや、画集や、そんなもの。食事を作るのもいいかもしれない。クリームコロッケを、もう一度作ろう。そして、ヒバリの喜ぶ顔を見よう。それでいい。それが、いい。

 そのまま山本は、向日葵畑の中で眠った。寝顔の口元は、安らかな弧を描いていた。





  
"1000; Good-Bye, Summer"/200610/from ZEROMON.